きのうの朝、散歩のとき熟れた桑の実を採って、早速ジャムをつくりました。
「山笑う」という季語がありますが、早春、山がパステルカラーに彩られる頃、私はわくわくし自然に笑みがこぼれます。タラの芽、コシアブラ、山ウド、コゴミなど山菜の季節だからです。
山菜採りにはまるようになったのは、いつ頃からでしょうか。今25歳の息子が小学生のとき、「母親の特技は草とり、料理」と作文に書いたことを思い出します。山菜を求めて山々を歩きまわるだけでなく、山菜を素材に料理をすることもセットで私の趣味なのです。料理して山菜をいただくとき、自然の恵みを実感します。
山菜料理というとすぐに思い浮かぶのは「天プラ」(正確には精進揚げ)。どんなにアクがあって苦い山菜でも、天プラにしてしまえばおいしく食べられます。しかし、ほとんど同じ味になり山菜としての個性がとんでしまうことが多いのです。天プラがおいしいのは、山ウド、桑の葉、山ブドウの葉、アカシアの花などでしょうか。
「おひたし」や「あえ物」は、アクの少ないものはゆでればいいのですが、アクの強い物はゆでたあと水にさらさないと食べられません。山菜料理の大変なところは、このアクぬきを始め「下ごしらえ」です。ノビルは、アクぬきの必要はありませんが、枯葉を除き球根の部分の泥をとるのに手間がかかります。野菜はすでに「商品」としてきれいになっていますが、山菜、野草はこの処理が一苦労です。時間と根気が必要です。
でも、私にとって、この下ごしらえの時間が貴重なのです。一見、時間のムダ使いに思えるこの時間こそ、私をリフレッシュさせてくれます。今の世の中は、効率主義・競争主義で、ゆとりがありませんが、「ムダ」をすべて省いたら、人生はつまらないものになってしまうのではないでしょうか。「趣味」は仕事から見たらムダの最たるもの。文化はこうしムダ(裏がえせば精神的ゆとり)から生れるものではないでしょうか。
山菜ではなく、野草(雑草)の中にも、食べられるものはたくさんあります。イタドリのベーコンいためなど最高です。それにしても、料理する楽しみは、「おいしい!」と言って食べてくれる人が必要です。幸いにも、わが家では孫も含めて「おいしい!」と食べてくれています。