ウェイターデビュー
宮川 学 会員
春といえば新入生、新社会人、ですが私、この春、ウェイターデビューをいたしました。 と、言ってもメイドや執事カフェではありません。
ある日、仕事が終わって家に帰ると妻が「明日ボランティアで喫茶店やるから手伝ってね。」と、一言。
「ボランティア?喫茶店?」 妻は私に内緒で、ボランティア活動を始めたというのです。 それは我が家では、冬の終わりを告げる春告げ鳥の到来を意味しているのです。 と言うのも、冬の間は寒さで活動を休止している妻が、暖かくなると毎年新しいことを始めるのです。去年は中国語を習うと言い、その前は三線を。その前はタップシューズなどを買ってきた。そして今度はボランティア。 とうとう今年は私まで巻き込まれてしまった。これは春の嵐と諦めるしかない。 腹をくくったウェイターデビューの朝、休日だというのに朝早くから起こされ会場へ着くと、そこは喫茶店とはほど遠い会議室。十数人揃ったスタッフ総出で会議室を飾り付けし、テーブルを並べ即席の喫茶店が何とか出来上がった。そして即席ウェイターのリハーサルです。 「いらっしゃいませ!」事務所では使わない挨拶がなかなか新鮮です。サラリーマン時代が少し蘇ります。 「ご注文は何にいたしましょう。」生涯で初めて発する言葉に違いありません。場所が変わるとお客さんと接する言葉がこれほど違うものかと関心しつつ、余裕の面持ちでリハーサルが終了したのです。 煙草を1本吹かし終わると「オープンしまーす!」の掛け声と共にお客さんがなだれ込んできた。 「い、いらっしゃいま、せ」なかなか声が出ません。普段はあまり緊張などしない自分が、どうも少し緊張してしまっているようです。 コーヒーとケーキを運ぶ手がかすかに震えてしまう。 「お待たせいたしました。」できるだけ、そっと、静かにカップを置こうとするが結果はガシャン!「すいません!」零さなかったのが幸いしたが、私の妙な緊張にお客さんがクスッと笑ってくれたのです。その瞬間、肩の力がふっと抜け、お陰で、その後の私はまるで天職と言わんばかりに楽しくウェイターデビューを果たすことができたのは言うまでもありません。 「何だか、妙に楽しそうだったね。」そう言った妻は厨房に閉じ込められていたのがちょっと不満そうに見えた。 いつまで続くかわからない妻の春告げ鳥。この原稿が入稿される頃、今度はお花見のボランティアデビューをしている予定です。
|