HOME > エッセイリレーエッセイ2020年多摩で考古学(2020年3月)
エッセイ

多摩で考古学

田﨑 博実 会員

 多摩支部のキートンと呼ばれています。弁護士というのは世を忍ぶ仮の姿、軍隊経験はないですが、新聞記者経験はあります。いずれは古代多摩王国の存在を実証するべく、日々、遺物収集に勤しんでいる考古学者、それが私の真の姿です(嘘)。

 ここ多摩地域は、古代より地方豪族の一大拠点であったことは間違いなく、発掘される遺跡は縄文時代まで遡れます。詳しくは、私の事務所の近所(多摩センター駅)の、東京都埋蔵文化財センターをご訪問ください。解説が必要でしたら、いつでもボランティアをいたします。

 多摩の地名が歴史書で最初に記録されたのは、日本書紀巻18広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと=安閑天皇)の箇所です。安閑天皇の元年とされる西暦534年、武蔵国内で内部抗争が起こり、これを朝廷が治めた見返りに、武蔵国が、横渟、橘花、倉樔、多氷の4ヵ所の屯倉(みやけ)を朝廷に献上したと記されています。この最後の多氷の「氷」が「末」の誤記であり、「多末」すなわち「タマ」と読むというのが通説のようです。

 この武蔵国造の乱と呼ばれる日本書紀の記録が史実か否かは分かりませんが、多摩地域では6世紀頃から多くの古墳が建造されるようになったというのは考古学的見地から間違いまりません。この頃に、有力な勢力が多摩地域に進出してきたようです。ただし、前方後円墳はありません。前方後円墳は世界でも類を見ない特殊な形態の墳墓です。したがって、墓制に前方後円墳を採用していた地域は、前方後円墳グループの中心であった大和朝廷の影響を受けているといえます。ところがその大和朝廷では、6世紀後半から前方後円墳が築造されなくなりました。後は、方墳(四角形の古墳。蘇我氏が採用したとみられる。)や八角墳(天智天皇陵等)という形態が採用されます。

 多摩地域では、圧倒的に円墳が多いですが、武蔵府中熊野神社古墳や天文台構内古墳といった、上円下方墳というやや特殊な形状の古墳もあります。また、我が多摩市の稲荷塚古墳は、八角墳とされています。

 この八角墳というのは、文字通り八角形の古墳です。近畿でも例が少ないですが、既述の天智天皇陵や段ノ塚古墳(伝・舒明天皇陵)など、皇族が好んで採用した墓形として知られています。注目すべきは、稲荷塚古墳の築造時期で、それは7世紀前半と言われています。天智天皇が頭角を顕す大化の改新(乙巳の変)645年の前後です。畿内で八角墳が登場するのはその後ですから、ここで、多摩地域で八角墳を築造したグループが、後に畿内に進出して、天皇家に大きな影響を与えたと推測することができそうです。墓制に影響を与えるというのは、相当なことです。舒明天皇(天智天皇の父親)近辺の天皇家系には、不自然な点が多いです。ひょっとしたら、この頃、多摩地域から畿内に進出したグループが、のちの天皇家になったのかもしれません。

 こう考えていくと、古代多摩王国、実在したとは思えませんか?

 

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